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The Testimony of Taliesin Jones
    タリアシン・ジョンーズの小さな奇跡

イギリス映画 (2000)

ジョン=ポール・マクロード(John-Paul Macleod)がタイトルロールのタリアシンを演じる、「奇跡」を描いた静かなドラマ。リディアン・ブルック(Rhidian Brook)の同名原作(1996)を忠実に映画化したもの。そういう意味では、映画の内容が現実離れしていても、それは映画の責任ではない。このサイトでは、「奇跡」物の紹介は、『I Am... Gabriel(私は ガブリエル)』(2012)、『The Carpenter's Miracle(大工の起こした奇蹟)』(2013)に次いで3作目になる。内容的に、キリスト教色が強くなってしまう傾向が強い。映画や原作の題名の直訳は、『タリアシン・ジョーンズの証明』で、「証明」とは、全校集会における発表のことだとされる。しかし、これでは分かりにくいので、この映画のアメリカでの公開題名『Small Miracles』と掛け合わせた邦題とした。なお、映画には 残念ながら字幕は存在しない。

タリアシンはウェールズの田舎に住む農家の12歳の次男坊。母は、数年前に出奔し、海外のリゾートの町の美容師とくっついている。農家の生活が合わないタリアシンは、寂しさを紛らわすために本の虫となり、級友からは「虫」とのあだ名を頂戴する。母は、タリアシンにピアノの練習を続けることを望み、自分がいなくなる前に、村の住民ビリー・エヴァンス老人にピアノ教師を依頼していた。平穏無事だったタリアシンの日常は、手にイボが多発するようになって一変する。好きだった女の子からも敬遠されてしまい、クラスでは笑い者にされるが、どうやっても治らない。絆創膏を貼りすぎてピアノの練習もできなくなる。しかし、新しい地平はその時に生まれた。タリアシンは、エヴァンス老人が、「祈りによって病を癒す」ことができると知り、その現場にも立会い、イボの悩みを打ち明ける。そして、エヴァンス老人の祈りで、イボは消えてなくなる。これは、タリアシンにとって、まさに奇跡だった。彼は、何とかこの奇跡を、みんなに伝えたいと願い、奇跡を実践する同好会を級友2人と一緒に結成する。その最初の被験者は、エヴァンス老人もやったことがないような、糖尿病の生徒。タリアシンには「特別な能力」があるようだが、エヴァンス老人のように慣れてはいない。だからタリアシンが祈っても、糖尿病が一発で治るはずがない。しかし、被験者の生徒は、治ったと思ってインシュリンの注射をやめてしまい、それが大問題に。校長は、タリアシンの純粋な目的を理解し、全校集会で弁明するよう求める。しかし、その直後、エヴァンス老人は持病か老齢で亡くなり、教区の司祭が(聖書のラザロのように)エヴァンス老人を生き返らせることができなかったことから、タリアシンは信仰そのものが信じられなくなる。そして、集会での弁明もできないと断る。そんなタリアシンの自暴自棄的な意識を変えたのは、暖かい校長の励ましと、エヴァンス老人の亡霊。お陰で、タリアシンは見事に弁明を終え、それまで宿敵だったクラスの虐めっ子との関係も修復できた。

この映画の見どころは、ひとえにジョン=ポール・マクロードの美少年ぶりにある。ただ、ジョン=ポールは、この作品が、映画初出演で主役。過剰負担だったのか、演技は冴えない。似たような表情が多いので、写真の選定には苦労した。彼の、その後の作品に見るべきものはない。


あらすじ

ウェールズのほぼ中央、典型的な緩やかにうねるような牧草地に囲まれた小さな村クムダーワン(Cwmderwen)。そこにある古くからの農場には 父と2人の兄弟が住んでいる。母は別居中、夢多き女性にとって、単調な農場での生活は耐えられなかったのだ。夜、星を見ながら、タリアシンが語る。「僕の12歳の誕生日に母が送ってくれた地図帳には、宇宙がどうやってできたのかまだ分かっていないと書いてあった。宙ぶらりんにしておくには大き過ぎる問題だ。神は知ってると思うけど、何も語ってくれない」。そして、映画のタイトル。この冒頭のシーンは、映画が「神」に関わるものだと暗示している。朝、タリアシンが母からもらった地図を持ってキッチンに下りて行くと、そこでは父と兄が簡単な食事を取っている(1枚目の写真)。父は、「小屋に行って牧草を取って来ないと」と言って席を立つ。「朝食を食べとけ」。兄も、「残りはお前のだ」と言って急いで後を追う。タリアシンが、父に、「パパが言ったように、中東で『エデンの園』を探したけど、見つからなかった」と言う。「どこか他にあるんだろう。メソポタミアとか…」〔メソポタミアも中東に入る…〕。口の悪い兄は、「くだらん〔Rubbish〕」の一言。食事を終えたタリアシンは、農場を出て学校に向かう。「この農場は、代々パパの家族のものだった。いつか、兄のジョナサンのものなるだろう。それでいい。彼は農場が好きで、僕は本が好き。友達は僕を「虫」って呼ぶ〔本の虫に由来〕。僕は気に入ってる。芯にまで行こうとするリンゴの虫みたいだ。訊きたいことがいっぱいある。頭の中では何千もの質問が答を待っている」。途中で、食料品店の前を通ると、主人が「いい誕生日だったか?」と訊く。昨日がタリアシンの誕生日で、母からの本は昨日届いたことが判る。「12歳になった気分は?」。「何も変わらない」。「欲しいものもらえたか?」。「本。母さんが地図帳を送ってくれた」。タリアシンは、プレゼントにリンゴを1個もらう。タリアシン:「アダムとイヴの話は本当なの?」(2枚目の写真)。「もちろんさ。正確な事実じゃないかもしれんがな。そこはほら、教えるためさ」。「他の果物でも同じだったのかな?」。「ザクロがあったら、イヴはそっちを選んでたかも」〔ザクロは、後にも出てくる〕。学校が始まる前、生徒たちは思い思いに芝生の上で話し合っている。タリアシンが、一番の友達リュークの横に鞄を置くと、さっそく、「ジュリーの胸、先週より大きくなったな、絶対だ」と話しかけてくる。「先週も同じこと言ってたぞ」。その時、始業の鐘が鳴る。タリアシンが自分の手を見て、「これ何かな?」とリュークに訊く(3枚目の写真、矢印)。「イボだ。太陽に当てれば消えるって、おばあちゃんが言ってたぞ」。教室に入ったタリアシンは、窓から差し込む光をイボに当てて、じっと見ている。イボは1個。右の人差し指にできている。
  
  
  

授業時間になり、校長が入ってくる。担任の体調が悪いので、急きょ交代したのだ。校長は、「今日の授業は『宗教』なので、その話をしよう」と言うと、教壇にもたれかかり、「なぜ『宗教』を学ぶのか、言える者は?」と問いかける(1枚目の写真、赤の矢印はタリアシン、黄色の矢印は宿敵フーパー)。タリアシンは、「神を知るためですか?」と答える。「そうだ。宗教を学べば、我々が『いかに、なぜ』神を信じるかが理解できる」。すぐに反論があがる。クラスの問題児フーパーだ。「それって、神を信じてなきゃ、宗教の勉強はパスしていいってこと?」。「多くの人が宗教を研究している。神を信じてなくてもだ」。「神なんか誰も信じちゃいない」。「それはどうかな。君達の中にも信じている子はいるだろ」。「親に強制されてるだけさ」。「君は、なぜ信じないんだ、フーパー?」。「目に見えないものは信じない」。「タリアシンは?」(2枚目の写真)。「僕は信じます」。フーパーは「答えになってない」と批判。ジュリーが「信仰には、理由なんかいらない」と援護すると、フーパーは「くだらない」と言って、タリアシンの頭にボールをぶつける。校長は、「君を罰するのにはもう うんざりした」と言い、「クーパーを、どうしたらいい? 君らが決めろ」と生徒たちに投げかける。普通なら、復讐を恐れて黙っているのだろうが、タリアシンは、「全校集会で… トラクターの事故でどうやって指をなくしたかを話すとか…」、と提案する(3枚目の写真、矢印はフーパー)。フーパーは、「殺してやる、虫野郎。こいつを鼻にぶち込むぞ」と金具を振りかざす〔潰された手のための補助金具〕。校長はただちに黙らせ、全校集会での発表を命じる。「反論は許さん」。
  
  
  

放課後、タリアシンはフーパーの羽交い絞めに遭う。タリアシン:「君を助けようとしたんだ。『教室では物を投げません』って百回書くよりいいだろ。簡単なんだ、フーパー、指のことを話すだけでいい」。「話すことなんか何もない」。「あるさ。でっち上げるんだ。血のことを話せよ。大量の血だ。面白いぞ」(1枚目の写真)「ウェールズで一番重いトラクターが君の指に乗っかって、ちょんぎったんだ」。このアイディアが気に入ったフーパーは、それ以上何もせずにタリアシンを解放、集まった生徒たちはがっかりする。帰りのバスにタリアシンが乗ると、隣にジュリーが座ってきて、足を投げ出す(1枚目の写真)。タリアシンの機転に、彼を改めて見直したのであろう。タリアシンが本を読んでいるのを見て、「それ何なの?」と尋ねる? 「農場を変えようとした動物の話」。「バスの中で よく読めるわね」。ちょっと読んでみるね。タリアシンは、オーウェルの『動物農場』の第4章の一部を読み上げる。その最後は、あまりにも有名な言葉。「良い人間は死んだ人間だけだ〔The only good human being is a dead one〕」。ちょうど、タリアシンの降車場所に到着する。ジュリーは、立ち上がったタリアシンに、「また、明日ね」と声をかける。タリアシンも嬉しそうだ。ここで少し脱線。今回の紹介の中で、You-Tubeで、この映画の字幕付きの動画を見つけた。一文字ずつ字幕が出てくるタイプだ。しかし、その「字幕」はひどいものだった。先の『動物農場』の一節を取り上げよう。“Back in the yard Boxer was pawing with his hoof at the stable-lad who lay face down in the mud(庭ではボクサーが泥の中で突っ伏した馬丁の男を起こそうと蹄で突っついていたが)”の部分だが、字幕では“Back in the ad boxer was part of this who practiced evil and who lay face down with the butt”となっている。赤は間違い。恐らく、機械で自動読み取りしたものなのだろう。めちゃめちゃな文章になっている。著作権侵害の上に間違いまで平気で撒き散らすとは、公害に等しい。家に戻ったタリアシン。農作業中で誰もいない。掛け時計は2時25分を指している。大きな掛け時計は停まったまま。「ママはいつも時計を巻いていた。彼女がいなくなると、『時』まで一緒に なくなった」。そして、過去のシーンが蘇る。「ピアノの練習を続けなさい。もっと練習しないと」。「もし、ピアノなんか弾きたくなかったら?」。「数年したら、気が変わって やめたくなくなるわ。前に進むことが大切なの。私のために続けて」。「ママは出て行く前、村でピアノの先生を見つけた。彼の名前はビリー・エヴァンス」。長々と引用したのは、この映画の最重要人物がエヴァンス老人で、彼との接点はピアノだから。場面は、タリアシンのピアノ・レッソンに変わる。エヴァンス老人には、タリアシンの弾き方が気に入らない。「そこは休止であって、断絶じゃない」と音の途切れを注意する(3枚目の写真)。
  
  
  

タリアシンが、ピアノのレッスンを終えて帰宅すると、兄が不機嫌な顔をしてTVを見ている。タリアシンが、「トースト食べる?」と訊いても、かすかに首を振るだけ。代わりに、「彼女から電話があった。お前と俺に、誕生日に来て欲しいそうだ」。「行くの?」。「ありえん」。「僕、行くべき〔Think I should go〕?」(1枚目の写真)。「勝手にしろ〔Your funeral〕」。最後の2つで会話では、“D'you” と “It's” が省略されている。この映画では、こうした省略形が多く見られる。その後は、父が戻って来て、夕食のシーン。父から、「ジョンから、ママの電話のこと聞いたか?」と訊かれ、タリアシンは頷く。「2人とも大きいから自分で決めろ」。そして、「で、行くのか?」と訊かれ、喜んで行くと思われたくないタリアシンは、「どっちでも〔I don't mind〕」と答える。父は、「好きにしろ。お前の母さんなんだから」と好意的に対応する。
  
  

朝起きたタリアシンは、イボの数が急に増えているのに気付く(1枚目の写真、矢印)。ピアノのレッスンに出かけた時は、指にいっぱい絆創膏を貼っている(2枚目の写真、矢印)。お陰で、指が思うように動かない。そこで、「できないよ」と、弾くのをあきらめる。エヴァンス老人は、「君がやりたくないなら、無理にレッスンを続けるのはやめよう」と言う。「レッスンは好きです」。この言葉はエヴァンス老人を喜ばせる。タリアシンは、壁に若い男性の写真が掛けてあるのを見て、「あれ、誰?」と訊く。「ウェールズでプレーしたトミー・ジェンキンスだ」〔1947生まれの著名なサッカー選手〕。「彼を知ってるの?」。「数回ここに来たからな」。「ピアノ?」。「いいや、肩を癒(いや)すためだ」。「じゃあ、みんなそのために ここに来るの?。あの女性のように?」〔タリアシンは、前回のレッスン後、老女が入って行くのを見ていた〕。「そうだ。癒しを求めて人々がやって来る。神のお力にすがろるためだ」。「呪文を唱えるの?」。「いいや、ただ祈るだけだ。君にもできる。心から信じていればな」。「何を信じるの〔What do I have to believe〕?」。「君を愛し、君に愛されることを望まれる神が、君を創りたもうたことだ。信じさえすればが、癒しをお願いできる。他のこともな」(3枚目の写真)。タリアシンは、先の女性が今日も来ることを知ると、「あなたがすること、見てもいい?」と頼む。エヴァンス老人は、夫人がOKする必要があるといい、さらに、交換条件を申し出る。「ピアノの練習をするなら、癒し方を教えよう〔You practice a piano and I'll teach you how to heal〕」。
  
  
  

夫人が到着すると、エヴァンス老人は、「この子はタリアシン、私の生徒です、ウィリスさん」と紹介する。「彼は、今日の祈りを助けてくれます。少し試してみてから、先に進めましょう。プラスαの助けがあれば、背中にも良いと思います」〔許可を求めている雰囲気ではない〕。夫人は、やっとの思いで座りながら、「背中が痛いここと言ったら! あと何回くらいかかります?」と悲鳴を上げる。「数回でしょう」。エヴァンス老人は、夫人のファースト・ネームを訊く〔前回、訊かなかったのだろうか?〕。エヴァンス老人は、名前を唱え、「この方が、祈りやすくなります」と説明する。エヴァンス老人は、夫人の背中に触りながら無言で祈り、しばらくすると、タリアシンを呼び寄せる。「ここに手を置いて」(1枚目の写真)。「ウィリスさんの癒しを神にお願いしなさい」。タリアシンは、「背中に癒しを」と何度も声に出して祈る。かなりの時間が経ち、エヴァンス老人が、「そうだ… これでいい… きたぞ」と、嬉しそうにタリアシンを見る。夫人はゆっくりと背中を真っ直ぐにすると、「動けるわ。やったわね、エヴァンスさん。何かが起きたの。あなたが何をなさったか知らないけど、やり遂げたのよ」(2枚目の写真)。夫人は、感激して「ありがとう、エヴァンスさん」と感謝するが、エヴァンス老人は、「私じゃ、ありません。私に感謝はいりません」と謙虚に言う。なお、エヴァンスを演じたイアン・バネン(Ian Bannen)は、この映画が最後の出演作となった。それにしても71歳とは信じられない老け顔だ。
  
  

家に戻ったタリアシン。手のイボを見た父は、小屋に連れて行き、「祖父は、昔からの療法を使ってた。イボがあったからな」と言い、「ヒマシ油に骨髄を混ぜた軟膏」を全部のイボに塗る(1枚目の写真、矢印)。そして、昔の祖父を思い出し、「頭に軟膏を塗るとどうなるか知ってるか? 蝿に追いかけられるし、遠くから見ると 野ウサギに見える」と言って思わず笑う。父は、母が出て行ってから、ついぞ笑顔など見せたことがない。そこで、“God, we can laughing.(何と、笑えるんだ)” と苦笑する。その “God” という言葉をとらえ、タリアシンは、「神を信じる?」と父に訊く。「ぜんぜん」。「でも、時々 お祈りしてる」。「人の為だがな」。「叶ったことは?」(2枚目の写真)。「半々かな。可能性はあるわけだ」。父は早々に話を切り上げ、「明日には良くなってるだろう」と言う。父は、いつも悲しげだが、タリアシンには親切で、兄のように「不機嫌の塊」ではない。
  
  

学校では、全校集会が開かれ、フーパーが「ウェールズで一番重いトラクター」に指を砕かれ、「プールがいっぱいになるくらい」血が出たと、以前、タリアシンが示唆したように、大げさな話を楽しげにでっちあげる(1枚目の写真、矢印は熱弁をふるうフーパー)。帰りのバスでは、ジュリーが窓辺に座り、タリアシンは毛糸の手袋をはめて『動物農場』を読んでいる。ジュリーは、「手袋 外してあげようか?」と訊く(2枚目の写真、矢印はこげ茶の手袋)。「いいよ」。「なぜ、外さないの?」。「風邪ひきやすいから」。ジュリーは、そんなのは嘘だと分かっているので、無理矢理手袋を取る。中から現れたのは、イボだらけの手。思わず、「ムカつく、イボだらけ! 触らないで」と体を引く。それを見たタリアシンは、すぐ席を立って2つ前の席に移る。しかし、ジュリーの言葉を耳にはさんだ後ろの席のワルが、「“Worm has warts(虫にイボができた)”」「“Warty Worm(イボだらけの虫)”」と言って、あだ名の「虫」と「イボ」の音が似ているのをからかいの対象にする(3枚目の写真、矢印はジュリー)。バスの中では、“Warty Worm” の合唱が起きる。
  
  
  

イボ・ショックで、タリアシンは、レッスン日でないにも係わらず、エヴァンス老人に会いに行く。自分のための相談なので、エヴァンス老人のためにミルク・ティーを作る(1枚目の写真、矢印はミルク)。エヴァンス老人は、冗談で、「どうだい、魔法使いの見習いの調子は?」と訊く。「大問題でも起こったかな?」。「疲れちゃって」。「疲れた? まさか。一体どうした?」。タリアシンはイボだらけの手〔HPV感染で起こるウイルス性のイボ〕を見せて、「これ、なくしてもらえないかと思って」と本音を語る(2枚目の写真)。「なくしたいのかね? 痛いのか?」。「あんまり。学校のみんなが、悪口言うけど〔calls me names〕」。「子供は 時に残酷だからな」。「これ、とれる?」(3枚目の写真)。「イボはイボだ。神は 山を動かすようにイボも取って下さる。とにかく、ピアノの鍵盤に触れる前に治しておかんとな。ちゃんと弾けるように」。そう言うと、エヴァンス老人は、タリアシンの手を触りながら無言で祈る。
  
  
  

家に戻ったタリアシン。ベッドに入ってからも、イボが気になって本が読めない〔読んでいる箇所は、『動物農場』の第8章の最後〕。遂に本を横に置き、イボをじっと見つめる。「僕のイボは、神と結びつきがあるに違いない。きっと、僕がやっちゃった何かに対する罰なんだろう。質問をし過ぎたのか、ピアノの練習が足りなかったのか…」(1枚目の写真)。タリアシンはベッドから出て窓辺に立つと、夜空を見上げて、「もし、イボを治してくれたら、秘密になんかしません。学校で、みんなに言います。だからお願い、今夜中に治して。ねえ、神様、そこにいるんでしょ。今、やってみせて」とお願いする。しかし、イボは消えない。しかし、タリアシンが背を向けてベッドに入ろうとして時、流れ星が走るのがガラスに映る。翌朝、キッチンで、タリアシンが兄に、トミー・ジェンキンスのことを話題にし、エヴァンス老人が彼の肩を治し、写真には、「試合を続けさせてくれたビリー・エヴァンスに感謝を込めて」とサインしてあると話す。これに対する兄の返事は、「ウソつけ〔Go on man〕」。それでも、タリアシンがまだ手袋をはめているのを見ると、可哀想に思い、「ボール蹴りたいか?」と誘う。「お前がウェールズをやれ。俺はイングランドだ」。2人は農場の前の野原に出て行き、ラグビーボールを奪い合う。年が違い過ぎて、勝負にはならないが、タリアシンの空想は、そのうちに、ラグビーワールドカップのウェールズ対イングランドの試合が行われているカーディフのミレニアム・スタジアムに移行する。その会場で、タリアシンが手袋をした手でボールを持っていると、観衆から一斉に「手袋をとれ〔Gloves off〕!」の声が上がる(2枚目の写真、矢印は手袋)。その場で手袋を取ると、イボがなくなっている。場面はすぐに野原に戻り、タリアシンが両手を見て感極まっている(3枚目の写真)。「見て、ジョナサン! 起きた時はあったのに、朝食か、プレーしてる間に消えたんだ!」。兄は、そんな話には耳を貸さない。ジョナサンは農場に走って戻り、小屋に飛び込んでいき、「パパ、奇跡だよ! イボがなくなった!」と手を見せる。「ビリーが治るよう神に祈ったら、なくなった。みんなに言わないと。どう思う?」。父は、鼻で笑い、「突然できたから、突然消えただけだろ」と相手にしない。「でも、今朝にはあったんだ。神がやったのじゃなかったら、どうやって消えたの?」。「さあな」。
  
  
  

タリアシンは、すぐにエヴァンス老人の家に報告に行くが、不在で会えない。そして、日曜日、タリアシンは司祭に話そうと、朝から正装をしてミサに行く準備をしている。キッチンに下りて行くと、父と兄が食べ終わって新聞に読みふけっている。夢見心地のタリアシンには、その記事が、「世界的特ダネ: イボの奇跡」(1枚目の写真)と、「ウェールズの村の奇跡/地元少年とのインタビュー」という内容に見えてしまう。タリアシンに気付いた兄が、「まだ 奇跡ごっこか?」と冷やかす。父が、「構うな、ジョン」と諌める。「きれいにしたな。じゃあ、行く気なんだな?」。「うん」(2枚目の写真)。「時間は大丈夫か? 遅刻じゃないのか?」。「10時からだよ」〔この一家は、日曜礼拝に行く習慣がないことが分かる〕。父は、タリアシンを車で教会まで送ってくれる。別れ際にタリアシンは、父に、礼拝に出る目的を話す。「神にありがとうって言わないと。イボを取ってくれたら、みんなに話すって約束したんだ。教会は、それをするのに最適だよね」。礼拝が始まり、『ヨハネによる福音書』の第11章が読み上げられる。そのメインは、ラザロの復活。43節の「イエスは大声で叫ばれた、『ラザロ、出て来なさい』」。死んで4日経ち、腐臭が漂い始めたラザロを、イエスが生き返らせる場面だ。その目的は、「周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」(42・43節)〔わざわざ紹介するのは、後で関係するため〕。礼拝後、司祭が出口に立って信者を見送る。司祭は、タリアシンに、「見たことのない顔だね。ここは初めてかね?」。「はい、そう思います。洗礼は受けましたが」(3枚目の写真)。「ぜひお話したいことが。ビリー・エヴァンスはご存知ですか?」。しかし、タリアシンの目論見とは違い、司祭は、エヴァンス老人がほとんど礼拝に顔を見せないと告げただけで、すぐに別の信者への挨拶に移ってしまう。タリアシンの礼拝は、全くの無駄足に終わってしまった。
  
  
  

ここで、主題とは関係のない挿話が入る。タリアシンが母の誕生日に出かけていく場面。父が駅まで見送りにくるが、このシーンで駅名がクムダーワン(Cwmderwen)だと分かる。もちろん、そこがロケ地のわけでもないし、本当に正しい場所なのかどうかも分からない〔地図によれば、クムダーワンにも一応鉄道が通っている〕。というのは、列車は海辺の町ウェスト・へヴン(West Haven)に着くが(1枚目の写真)、こんな町は存在しないからだ。大して差し障りもないのに、なぜ偽名を使ったかは分からない。少し先走ったが、ディーゼル車に乗っている間に、タリアシンの母に対する独白がある。「年に2回、ママは買い物とヘアセットにウェスト・へヴンに出かけていた。帰宅した時は、いつも幸せそうだった。輝いて見えた。そして、ある日、帰って来なかった。ママは、次の日に帰宅すると、ウェスト・へヴンに引っ越すと告げた。もっとカラフルな暮らしがしたいからと。両親が言い争うのを初めて聞いた。ママが替えの下着も持たずに家を出て行った時、パパは、1週間もすれば戻ってくると笑っていた。しかし、1週間経つと、ウェスト・へヴンにも下着を売る店は一杯あると 認めざるをえなくなった」。タリアシンは迎えにきた母と抱き合う。そして連れて行かれた素敵な家では、一緒に住んでいるトニーという男性(美容師)が、誕生日にために豪華な食事を用意してくれている(2枚目の写真)。古くて暗い農家と比べれば、夢のような生活だ。ただ、この「母」という登場人物は、映画の上で、何ら重要な役を果たさない。だから、なぜ、敢えて、このような「夢のような」生活をさせるという設定にしたのかも理解できない。タリアシンとトニーの浜辺での会話も、ストーリーと無関係なので省略する。その後、タリアシンは母の前でピアノを弾く。その時、タリアシンは「奇跡」の話を持ち出し。エヴァンス老人が祈ったからイボが取れた話をするが(3枚目の写真)、母も信じようとはしない。タリアシンのウェスト・へヴン行きは、7分を超える長いシーンだが、はっきり言って、無意味なまま終わる。。
  
  
  

タリアシンは、駅に迎えに来た父から、エヴァンス老人からプレゼントが届いていると聞かされる。タリアシンは部屋に飛んで行くと、ベッドの上に置かれた包みを破る(1枚目の写真、矢印)。タリアシンの部屋の様子が良く分かる。建物は古いなりに、子供部屋としてよく整っている。包みの中は、子供向きの挿絵入りの聖書だった。表紙を開けると、「わが友、タリアシンへ。彼の確固たる信念に。ビリー・エヴァンス」とサインされている。次のシーンでは、どこかの壁に書かれた悪戯書きの「WORM(虫) HAS WARTS(イボ)」の「HAS」を、タリアシンが「HAD」と、過去形に訂正している(2枚目の写真、矢印は「D」の字)。一緒にいるのは仲間2人。タリアシンは、「僕たち、同好会〔gang〕を作ろう」と言い出す(3枚目の写真)〔ギャングにこのような意味があると、初めて知った〕。リュークがすぐに賛成する。タリアシンは、さらに、「僕たち、目的を持たないと」と付け加える。「どんな目的?」。「奇跡を追求するんだ」。奇跡とは、第三者の前で誰かを癒すこと。同好会の名前は、「信じる者たち〔The believers〕」。話はさらにエスカレートし、「癒し」の対象が議論となる。リュークの挙げたのが、ウィリアム・ジョーンズ。「彼、糖尿病なんだ。一生、治らないって」。もう1人が、「もっと簡単なものから始めたら? 他にイボのある子とか」と提案するが、ウィリアム案を出したリュークから、二番煎じだと却下される。タリアシンは、糖尿病のことなどまるで知らない。友人:「毎日 自分で注射しないと、死んじゃうんだ」。話の途中で ジュリーと出会う。タリアシンは、「僕たち、病気を癒す同好会を作るんだ」と話しかける。そして、イボのなくなった手を見せる。「参加しない?」。答えは、「どんな同好会にも入らない」。そして、「もう、触れるわね〔I can touch you now〕」。この後の方の言葉に、リュークは嫉妬する。
  
  
  

お昼の休憩時間に、3人はウィリアムに、「『信じる者たち』って同好会作ったんだけど、入らないか?」ともちかけ、OKをもらう。4人は、大きな木の下に行き、真ん中にウィリアムを立たせ、3人で周りを囲む。正面に立ったタリアシンが、「ウィル、目を閉じて」と言い、3人がウィリアムの頭に手を乗せる(1枚目の写真)。タリアシンはウィリアムのミドル・ネームを訊き、祈りを唱える。「神の名において、ウィリアム・ジェラードに癒しが与えられますように。アーメン」〔エヴァンス老人のやり方とは全く違っている〕。リュークが、「良くなった感じする?」と訊く。「効いたみたい」。リューク:「じゃあ、もう注射なんか打たなくていいんだ」。この楽天的な言葉に、タリアシンは、「だけど、治るまで くり返さないと。糖尿病が治るまでに、何回必要なのか知らないんだ。注射をやめる前に、もう一度やるべきだ」と釘を刺す(2枚目の写真)。遠くから4人の行動を見ていたフーパーは、寄ってくると、タリアシンが後生大事に抱えていた聖書を取り上げる。そして、子供向きだとバカにし、表紙を補助金具で傷つけ始める。怒ったタリアシンは、フーパーの目を見て「くそったれ」と言い、顔を殴られる。フーパーは、「『甘んじて侮辱を受けよ〔Turn the other cheek〕』だろ、虫野郎。聖書が言ってるぞ」と捨て台詞を吐いて去って行く。鼻血を出したタリアシンに、リュークは、「殺されるとこだったな。鼻の骨に当たって脳みそまでやられてたかも」と慰める〔彼が一番の問題児→ウィリアムに注射を即止めるように言ったのも彼→後で、大問題になる〕。まともなことをしたのは、もう1人の友達。ハンカチを渡してくれる。ウィリアムも、上を向いてとアドバイス(3枚目の写真)。
  
  
  

翌日、タリアシンは校長室に呼び出される(1枚目の写真)。理由は、ウィリアム・ジョーンズの母親からの抗議文。内容は、息子が同好会に連れ込まれ、無理矢理 儀式をさせられた上、インシュリンの注射をやめるよう説得された。これは命にも係わることなので、かくも悪質な会は即刻解散させろ、というもの。実情と かけ離れている。校長は、「君は、インシュリンを止めるよう説得したのかね?」と尋ねる。「いいえ」。「じゃあ、何をしたんだ?」。「病人を癒そうとしたんです」。「どうやって?」。「手を当てて祈るんです」。「効いたのか?」。「一度しかやってません。ウィリアム・ジョーンズの問題は、祈り方が不十分だったからだと思いますが、インシュリンを止めろなどとは言ってません」。校長は、ウィリアムが誤解したのだろうと結論する。ただ、タリアシンの動機がつかめたわけではない。そこで、「なんで こんなことを始めたんだ?」と尋ねる(2枚目の写真)。「突如として他人のために祈るなんて、神の啓示でもあったのかな?」。「確かなことは分かりません」。「なぜ、効くと思ったんだ?」。「見たんです。実際に見てない人に説明するのは難しいのですが… 一度話したんですが、信じてもらえませんでした。そこで、僕が自分で癒してみせれば、みんなにも分かると思ったんです」(3枚目の写真)。それを聞いた校長は、こう結論する。「君がしたことが間違っているとは思わない。しかし、ジョーンズ夫人の怒りを鎮めなければならん。一種の妥協だな。だから、君は、来週の月曜に全校集会で発表するんだ」。かくも理解のある校長だが、タリアシンがクラスに戻ろうと立ち上がった時、チクリと一言。「これ以上、空想的なことはするなよ。『若き救世主に何かされました』なんて抗議文は、もう見たくないからな」。
  
  
  

その日、タリアシンがバスに乗っていると、エヴァンス老人が車から降りるのが見えた。そこで運転手に頼んで降ろしてもらう。エヴァンス老人がしばらく留守にした理由は、病院で検査を受けていたためだった。退院はしたものの元気がない(1枚目の写真)。タリアシンは、「みんなに、あなたのことや お祈りのこと、言うんじゃなかった」と反省する。しかし、エヴァンス老人は、「君には特別な能力〔gift〕がある。見せることを恐れるんじゃない」と勇気づける。「怖いよ。神様との約束は守りたいんだけど…」。「全校集会は、約束を守らせやすくするための、神の助け舟かもな」。そう言われて、タリアシンは考え込む(2枚目の写真)。「助けてもらえる?」。「もちろん。時間の余裕は?」。「1週間」。「じゃあ、明日から始めよう」。しかし、明日は、ウェスト・へヴンにいる母が、家に残してきた家具を引き取りに来る日。そこで、明後日に延ばしてもらう。
  
  

そして翌日、母が車でやって来る(1枚目の写真)。食後のデザートにタリアシンが持ってきた皿に入っていたのは、ザクロ1個。他のものを期待していた兄は、「これ何だ?」と詰問する。「ザクロだよ」。父が、場を和ませようと、「どこから来た?」と尋ねる。「ハンディコット」〔以前、タリアシンがリンゴをもらった店〕。「それは分かってる。どこの国だ?」。「たぶん中東だよ。ハンディコットが言うには、イヴが食べたかもって。それに、ザクロの種は611個と決まってるんだって」。兄:「間違いだ。ハンディコットが言っただけだ」。「聖書に書いてある」。「聖書のどこだ?」。兄は、611という数値にこだわり、タリアシンと口論になる(2枚目の写真)。「なぜ、620じゃいけない?」。「611だ」。「じゃあ、数えてみせろ」〔何のためにことシーンがあるのか、全く理解できない→無駄なシーンの最たるもの/因みに、ユダヤ暦の新年にザクロを食べる風習があるそうだが、その理由は種の数が613だから(611ではない)。613は、モーセ五書のミツワー(戒律)の数なので尊ばれている〕。兄は、最後に、「こいつの頭の中はクズだらけで、それは、あのピアノの教師のせいだ」と個人攻撃に移り、「何も知らないくせに」とタリアシンが反論。母がとめに入ると、「ここの人間じゃない奴は、黙ってろ!!」とキレる。タリアシンにも、「神様ごっこには、もう うんざりだ」と悪態をつく。タリアシンは、「みんなもジョンと同じ意見なの?」と訊く。父も母も無言。悲しくなったタリアシンは、家を飛び出てエヴァンス老人に会いに行く。
  
  

外はもう暗くなっていた。タリアシンがエヴァンス老人の家に着くと、家の中は照明が点き(窓辺のスタンドが1つだけ)、ラジオの音が聞こえるのに、ノックしても返事がない。中に入り、「ビリー」と呼んでも応答はない。これまで入ったことのない寝室まで見に行くと、エヴァンス老人はベッドの中で冷たくなっていた(1枚目の写真)。外では雨が降り出している。タリアシンは教会まで駆けて行き、司祭に「ビリーが死にました。急いで来て」と告げる。司祭を連れてエヴァンス老人の寝室に戻ったタリアシンは、「生き返らせます?」と尋ねる。「急がないと、手遅れになりますよ」(2枚目の写真)「ラザロは死後4日でした。ビリーがいつ亡くなったかは知りませんが、昨日は生きてました」。司祭は、タリアシンの異常な発想に困惑する。「君は、エヴァンス氏を生き返らせて欲しいのか?」。「はい」。「私には、そんなことはできない」。「でも、ラザロは?」。「神は、自らの力を人々に信じさせるためにラザロを復活させられたのだ。誰も彼も復活して廻られたのではない」。「ビリーは、『誰も彼も』じゃありません」。「私には、生と死を司(つかさど)る力はない。イエス・キリストではない」(3枚目の写真)〔日曜礼拝でラザロの復活の話を聞いていたとはいえ、現代の少年がこのような要求をするだろうか? いくら映画にしても非現実的すぎる〕
  
  
  

家に戻って寝込んでしまったタリアシン。数日後、校長がわざわざ様子を見に訪れる(1枚目の写真)。「全校集会で話したくないと聞いたぞ」。「話すことがありません。もう、信じていません」(2枚目の写真)「お望みなら、別の罰を与えて下さい。もう話せませんから」。「罰が必要だとは思わない。もう十分だろう」「友達だったビリー・エヴァンス氏が亡くなったそうだな。一、二度会ったが、いい人だった。残念だったな」「じゃあ、君は、これからは、『怪しげな希望』など抱かない その他大勢に戻るわけだ。残念なことにな」。校長は、タリアシンのユニークさが気に入っていたようだ。「もう信じたくありません〔Don't want to belive anymore〕。耐え難いんです」。この二度目の「信仰拒否宣言」に対し、校長は、次のように語りかける。「『信じる』ことの意味や、言葉の由来を知っているかね? 古英語に『līefan』という言葉がある。『受け入れる』という意味だ。何かを『信じる』時、それが真実だからとは必ずしも限らない〔It isn't just about having faith in something because you know it's true〕。現実には、証明なしに『受け入れる』ものもある〔It actually means making allowance for it, not requiring proof〕」(3枚目の写真)。恐らく、この映画で、最も重要な言葉であろう。校長は、タリアシンの「信仰拒否」の再考を促したことになるが、正攻法ではタリアシンの決意は変わらない。
  
  
  

翌日、登校したタリアシンは、帰りに 主を失ったエヴァンス老人の家に入っていく。そして、ピアノを弾き始める。すると、後ろから肩を触る者がいる。エヴァンス老人だ。「一緒に祈るはずだったな。約束を守れなくて悪かった。今、したいか?」。「ううん」。「じゃあ、もう信じてないんだな?」(1枚目の写真)。エヴァンス老人は、「イボは消えたが、他のものがまだ残っている。君には、癒しが必要だ。すべては神に対する気の迷いのせいだ。すべてを胸にしまい込んでいては、救われない」と説明する(2枚目の写真)。そして、タリアシンの頭を両手で抱くと、「目を閉じて… 心に中のすべてをさらけ出し、神に差し出すのだ」と言いながら、祈る。「そうだ、それでいい」(3枚目の写真)。タリアシンはエヴァンス老人に抱きつく。エヴァンス老人の祈りは続く。「この子を癒したまえ」。3度目の祈りの際、エヴァンス老人の姿は消えている。エヴァンス老人は、タリアシンを救うために現れたのか、すべてはタリアシンが作り出した幻想なのか? この後、母が家を出て行くシーンが挿入される。「あなたにためなら、いつでもここに来るわ」。そして、タリアシンの胸に手を触れ、「ビリーもここにいる」と言う。タリアシン:「僕なら、大丈夫。もう行って。トニーによろしく」。
  
  
  

そして、全校集会の日、タリアシンは演壇に立つ。「僕は、ずっと神様を信じてきました。でも、なぜかは説明できません。ビリー・エヴァンス。彼は、僕のピアノの先生で友達でした。彼は先週亡くなりました。彼はこの村に住み、奇跡を行いました」(1枚目の写真)「病人のために祈り、手を触れることで癒してきました」。ここで、フーパーが、「おい、虫野郎、嘘付きは地獄落ちだぞ」と批判する。「ある日、レッスンが終わった後、僕は、自分の目で、ビリーが癒すのを見ました。信じたくなければ、結構です。僕は、イボを治して欲しいとビリーに頼みました。ビリーはOKし、神様にお願いしました。彼は、イボがなくなるよう祈り、僕も祈りました。ビリー・エヴァンスは、僕に奇跡を起こしてくれました。祈りが終わると、イボは消えていました」。ここでまた、フーパーが、「イボなんてあったんか? 見てないぞ」と批判する。これに対しては、ジュリーがすぐに、「あったわ。いっぱい見た」と反論する。これは、リュークの「僕も」より、フーパーには強力に効いた。彼女は、恐らく、クラス全員のアイドルだったから。タリアシンは続ける。「信じる心さえあれば、ここにいる誰にでも同じことは起きるでしょう。誰にでも…」。ここで、まともな質問が入る。「なぜウィリアム・ジョーンズに効かなかった?」。「彼は、まだ注射打ってる」。「なぜかは分かりません。説明もできません。僕は、ただ、信じているだけです」(2枚目の写真)「僕には、理解できないことが いっぱいあります。それって悪いことですか? 『力』は、存在します。僕たちを じっと見守っています」。フーパーが立ち上がり、「これ、治せよ」と潰された手を掲げる。校長が遮り、発表の終わりを告げるが、フーパーは演壇の前まで来て、同じ要求をくり返す(3枚目の写真)。集会は強制解散となった。
  
  
  

昼休み、一人で木の下に座っていたタリアシンのところに、フーパーがやってくると、「試せ… 試してくれよ」と頼む(1枚目の写真、矢印)。タリアシンは、フルネームを訊き、「神様、ロバート・フーパーに癒しが与えて下さい。お願いします」と祈る。「信じてる?」。「ううん」。「なあ、フープ、失うものなんてないだろ?」。「信じるよ」。フーパーは、「神様、治して下さい。僕も信じます」と自ら祈る。タリアシンも、黙って祈る(2枚目の写真)。しかし、タリアシンが手を離しても、フーパーの手は歪んだままだ。しかし、フーパーは、「いいさ、また明日やろう。やれそうに感じたんだ」と前向きに言う(3枚目の写真)〔フーパーの大変身には違和感があるが…〕
  
  
  

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